J.A.S. BLOG

Let me show you Joy, Anger and Sorrow I've felt.

静けさについて思うこと

土曜の夕方の住宅街というものはなぜここまで静まりかえるのだろうか?

 

私が住む場所は公立の中学と私立の小学校に挟まれているので通常は田舎の繁華街程度にはうるさいのだが、今日に限って子供の声はせず、ただ道路は静まり返っている。聞こえるのは羽田空港を目指しているであろうジャンボジェット機が空気を切る音と、祖母が昔から使っている壁時計のカチコチカチコチ、という音だけだ。

 

この間、3月の終わりに奥日光湯本温泉を訪ねた時もそうだったし、冬の中禅寺湖を訪れた時もそうだった。私たちの耳は、静寂が痛いのだ。

 

 

 

 

 

 

私たちは一人になりたがる時がある。

普段から私たち人類は他人と関わらなければ生きていけないからであるが、そのような生活では私たち自身が自身の人生を完全にコントロールしているという実感は薄れていく。だからこそたまには一人になって自分自身の生に決定権があるか確認したいのかもしれない。

 

しかし一人になる、ということは孤独になる、ということである。普段は何かしら他人とつながっているこの体が物理的距離に、建物に阻害されて他人から切り離されるということが起こるということである。

 

 

 

 

 

 

孤独と静寂とが一挙に私たちを通り抜けると、私たちの体はそして魂はだんだんしぼんでくる。これはわたしが弱い魂をもっているからか、それともとても自然な反応なのか。

 

いつかこのまましぼんでいなくなってしまうのだろうか。それともある程度まで縮んだらわたしの魂はそれに怒りを感じて爆発するのだろうか。後者だろう。わたしは怒りを感じるだろう。存在の小ささに、魂の弱さに。

 

だから、私はまだそこまで弱っている存在ではないのかな、と思うのだ。

そんな土曜日の午後。