J.A.S. BLOG

Let me show you Joy, Anger and Sorrow I've felt.

静けさについて思うこと

土曜の夕方の住宅街というものはなぜここまで静まりかえるのだろうか?

 

私が住む場所は公立の中学と私立の小学校に挟まれているので通常は田舎の繁華街程度にはうるさいのだが、今日に限って子供の声はせず、ただ道路は静まり返っている。聞こえるのは羽田空港を目指しているであろうジャンボジェット機が空気を切る音と、祖母が昔から使っている壁時計のカチコチカチコチ、という音だけだ。

 

この間、3月の終わりに奥日光湯本温泉を訪ねた時もそうだったし、冬の中禅寺湖を訪れた時もそうだった。私たちの耳は、静寂が痛いのだ。

 

 

 

 

 

 

私たちは一人になりたがる時がある。

普段から私たち人類は他人と関わらなければ生きていけないからであるが、そのような生活では私たち自身が自身の人生を完全にコントロールしているという実感は薄れていく。だからこそたまには一人になって自分自身の生に決定権があるか確認したいのかもしれない。

 

しかし一人になる、ということは孤独になる、ということである。普段は何かしら他人とつながっているこの体が物理的距離に、建物に阻害されて他人から切り離されるということが起こるということである。

 

 

 

 

 

 

孤独と静寂とが一挙に私たちを通り抜けると、私たちの体はそして魂はだんだんしぼんでくる。これはわたしが弱い魂をもっているからか、それともとても自然な反応なのか。

 

いつかこのまましぼんでいなくなってしまうのだろうか。それともある程度まで縮んだらわたしの魂はそれに怒りを感じて爆発するのだろうか。後者だろう。わたしは怒りを感じるだろう。存在の小ささに、魂の弱さに。

 

だから、私はまだそこまで弱っている存在ではないのかな、と思うのだ。

そんな土曜日の午後。

 

わたしとこどく

あなたにとってこの話はどうでも良いことかもしれない。どうでも良くないことなのかもしれない。我が子の誕生に次ぐことかもしれないし、精子を拭ってゴミ箱に捨てたティッシュのようなものの可能性もある。

 

 

 

f:id:burnig-red:20170412215131j:plain

 

 

 

 

わたしはおそらく、他の人と同様に孤独だ。

 

 

 

なぜ、今更そんなことを言うのだろうか?

それはわたしが最近再受験をして大学に入り直して「社会」にも「大学」にも溶け込めないからかもしれないし、好きな女の子と良い関係が築けていないからかもしれない。

 

 

高校が高学歴だからだろうか、わたしの周りには、再受験生と多浪生がたくさんいる。かれらは皆、歳に似合わず考え方が子供っぽかったり顔が幼かったりする。わたしは今まですこしも彼らのことを慮る瞬間がなかったのだが、自分が再受験してみて同情することになった。彼らは、大学に入ったとしても、「社会」にも「大学」にも属さない存在であり、本質的に所属する場所を持たない、悲しい人間である。

 

社会に属する人というのはどういう人だろう。社会人、と呼ぶ人だろう。わたしの考える日本人の一般的な考え方だと、おそらく、両親の庇護のもとから独立して仕事をして自ら生計を立てている人である。彼らはそれに誇りを持っているし、言うまでもなく再受験生は親の庇護のもとに学業を職業にしている人が多いわけで、その意味で社会人ではないし、よって「社会」に属していない。

 

大学に溶け込めない、というのはどういうことだろう?それは同学年と、経験からくる差異が想定より多いせいで、自分を理解してもらえない、ということだ。例えば社会人のあなたが今の仕事を辞めて大学に入り直したとしよう。日本の典型的なバカ大学一年生のようにある程度遊び、すこしだけ勉強してあなたは満足できるだろうか。いや、そんなことはあり得ない。なぜならあなたは生き残る為にや今やらなければならないことを知っていて、かつそれを実行していたいからだ。決して他の新入生のように思考を放棄してコンパばかりしているわけにはいかないはずだ。それは、その状態は新入生の中では圧倒的孤独である。

 

 

 

再度宣言しよう。わたしは、元再受験生である。今は大学生である。

社会にも、大学にも属せず、大事な人にも拒絶され、生きている者である。

 

 

 

 

 

ああ、悲しいことだ。

 

 

渋谷のハローウィーンを馬鹿にする奴はカッコ悪い

ハローウィーンである。今夜も渋谷では若者中年果てはじいさんばあさんまでノリノリで楽しい仮装ぱーちーをやるに違いない。万年引きこもりの私には羨ましい話である。

 

ところで最近、というかここ数年、よく渋谷のハローウィーンについてこんな言説を見かける。「ハローウィーンに渋谷で仮装するのはみっともない」「恥知らず」「何が楽しいのか」「やっているのはダサい奴だけ」

 

ここで私は思うのだ。こういうことを言っている奴らこそダサくて恥知らずだと。このような批判をする奴ら、特にテレビ番組で知ったかぶって批判している奴らこそ時代の波に乗れていないし、人の目ばっかり気にしていてカッコ悪いのだと。

 

まずそもそも彼らは何をダサい、と言っているのだろうか?まず第一にそれはおそらく、西洋人のイケてる長身マッチョだったり、巨乳でスタイルが良い美人なお姉さんだったりがハロウィーンに仮装を仲間内でやるならともかく、胴長短足普段は全くイケイケでないブサイクデブもしくはブサイクやせのアジア人が、西洋では通常子供達がやることを楽しそうにやるから(比較した上で)カッコ悪いというのであろう。

 

この思考がまずダサいし、貧しいのだと私は思う。そもそもオリジナルと比較する必要などないのだ。古来から日本は島国として外国の文化を自国に取り入れて独自の文化として育んできた。カレーなどの食べ物や言葉だったり。そのことを考えれば別に良いではないか、胴長短足の大の大人がハローウィーンに路上で仮装してはしゃいだって。新しい日本文化なのだ。いくらおぞましく見えようとも。日本なんて所詮キメラなのである。私は強く思う。日本人は普段集団倫理に抑圧されているのだからたまには祭りで自分を解放する必要性があるし、少しくらい正当化されたって悪いことはないと思うのだ。(ゴミは自分で持ち帰るべきだが)そんなキメラみたいにつぎはぎだらけでも美しく全体が調和しているこの国を彼らはむしろ誇って、新しいガラパゴス文化の生誕であると歓喜するべきなのだ。

 

そもそも、もしハロウィーンをオリジナルと較べて批判するのならクリスマスはどうなるのだ。バレンタインは。この国に数パーセントしかいないキリスト教の信者の方ならともかく、真面目にイエスに祈っている人たちが何十万人いることだろうか。よってオリジナルのイベントと比較することは間違っている。

 

第二に、彼らがダサいという理由は単純に参加者の行動がみっともないからであろう。テレビではハローウィーン近くになると裸に近い格好をしている姉ちゃんや、夜に酔いつぶれて路上で寝ている人たちがクローズアップされる。反論しよう。まず第一に、路上で寝ている人たちはハローウィーンに特有ではない。新橋に行けば金曜には見られる現象である。だからハローウィーンの短所ではない。第二に、テレビはエクストリームな例を選んでいる。実際に行ってみればわかるかもしれないが、姉ちゃんがみんながみんな、裸みたいな格好をしているわけではないのだ。むしろとても寒いので過度の露出は全くない。つまり、だ。渋谷のハローウィーンはみっともなくないのだ。悪いイメージの大部分はゴミ問題からきているのであろう。しかしながらゴミ問題は仮装グッズをここぞとばかりに売ってゴミ箱を設置してこなかった量販店にも責任はあるし、ゴミを放って帰るのも日本人の元からの習性だからハローウィーンだけが悪く言われるのは心外である。(サッカー観戦だったり花見だったりポケモンGOだったり日本人はゴミをポイ捨てするのが大好きだ)よってハローウィーンはダサくもない。

 

なぜ彼らは批判するのか。それは新しいものを受け止める若さがない、能力がないからかもしれないが、恐らくは大勢の意見に流されることしかできないからではないだろうか。格好つけて、もしくは自分みずから体験したことも真剣に本質を考えたこともないくせにただマジョリティーの意見に乗ってみる。批判している人の大部分はそんな人たちのように私には感じられた。

 

そんな奴は、彼らが見下している、ハローウィーンに路上で寝ているお姉ちゃんの一億倍かっこ悪いのだ。